瓜破地域は、平野区の南西部に位置し、南側の一部は大和川対岸の松原市側に位置しています。地域の約8割が遺跡地に指定されているように新旧のまちなみと広々とした空間が特色の歴史あるまちです。
瓜破地域の歴史に関して最も著名な『舟戸録』によると、飛鳥時代の道昭(道照)という高僧が、疫病が流行っていたこの地を通りかかり、お祈りしていると天神さまの像が出現し、お堂にお祀りし瓜を二つに割ってお供えしたことで、疫病が収まったことから、この地域が「瓜破」と呼ばれるようになったとされています。なお、この天神さまを祀るお宮が瓜破天神社とされています。
また、『河内名所図会』によると、弘法大師がこの地を通られた時に、地域の人が瓜を勧めたことに由来するとされています。
このような2つの説が地名の由来としてあげられていますが、古くから瓜の産地であったことは確かなようです。
瓜破遺跡は、大阪市の東南部に位置する後期旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡として知られています。
瓜破遺跡の南部を流れる大和川は、江戸時代の宝永元年(1704年)に付け替えられた川で、瓜破遺跡を南北に分断するように流れています。大和川の河川敷では戦前から弥生時代の土器や石器が採集されており、考古学の重要な資料として活用されました。これらの大半は地元には残っていませんが、京都国立博物館・関西大学・明治大学に収蔵されているほか、大阪歴史博物館には重要文化財に指定された新王莽の貸泉や有蓋台付無頸壺があります。
瓜破遺跡は、南から北に向かって延びる河内台地の中央部以西から西方の沖積地に拡がっており、23,000~20,000年前の最終氷期に当る後期旧石器時代の人々が使ったサヌカイト製の国府型ナイフ形石器をはじめ、石器を作る際に生まれたサヌカイトの石核や剥片が集中して出土する場所が、北に開く幾筋もの開析谷の尖端に近い瓜破東2丁目・瓜破2丁目・瓜破西1丁目地区にあります。
瓜破西1丁目では、気温が温暖になった狩猟と採集が生業の時代である縄文時代は、弓矢と土器が登場する縄文時代草創期の槍先である有茎尖頭器が出土しており、今から5,500年前の縄文時代中期は海面が現在より高く、生駒山の西側から上町台地にかけて河内湾が拡がり、瓜破遺跡の目前に海岸線がありました。
瓜破東2丁目・瓜破南1丁目では近畿や瀬戸内地域とのつながりのある縄文時代中期~後期の土器やサヌカイト製の石鏃・スクレイパーなどの打製石器が出土しています。また、島根県の隠岐から運ばれた黒曜石も見つかっており、縄文人の交易圏の広さには驚かされます。
日本列島で米作りがはじまり、弥生土器や石庖丁・蛤刃形石斧・柱状片刃石斧などの大陸系磨製石器、各種の鉄器が使われた弥生時代になると、瓜破3丁目から大和川の河川敷および、瓜破西1丁目では大小の集落が形成されます。特に旧JR阪和貨物線の敷地内の調査では幅約1.5m、深さ約1mの大きな溝が見つかっています。この溝は弥生時代前期の終わり頃(紀元前300年前後)の集落の周りを巡る環濠ではないかと思われます。
瓜破遺跡の集落は、弥生時代中期の中葉には大和川の南側に移動しますが、弥生時代中期の終わり(紀元1年頃)には再び元の場所に戻ったようです。瓜破遺跡の弥生時代前期末~中期初頭の集落では、河内・北摂・和泉・紀州・讃岐など、近隣はもとより、遠隔地の集団との交易や交流を行い繁栄していたことを物語る石器素材や土器が見つかっています。
紀元1年頃に起こった倭国大乱が静まり、3世紀の初めの邪馬台国の時代になると、瓜破西1丁目に拡がる瓜破北遺跡に大きな集落が営まれています。大阪府営住宅の建て替えに伴う調査で見つかった井戸の幾つから、口を打ち欠き、底を穿孔した多くの土器が出土しました。これらの土器は、集落で行われた葬儀に伴う歌舞飲食で使われたあと、まとめて捨てられたものと思われます。魏志倭人伝に書かれた歌舞飲食を今に伝える貴重な資料といえます。また、府営住宅の東側を通る阪神高速道路の近くでは、「永而思」と読める前漢鏡片や破砕した後漢の鏡片に孔を穿ちペンダントにしたもの、鈕の周りを打ち欠く鏡片などが出土しています。これは、瓜破北遺跡の集団は中国鏡を入手できた河内湖周辺に展開する政治勢力の首長とも関係が深かったことを示しています。
瓜破北遺跡に近接する喜連西遺跡では、邪馬台国時代の大型の墳丘墓を含む墓域が見つかっており、河内湖南岸の屈指の集落であった瓜破北遺跡の墓域の可能性があります。
日本列島の各地に前方後円墳が築かれた古墳時代の瓜破遺跡では、河内台地のほぼ中央部の瓜破東2丁目の周辺で5~6世紀の集落や古墳が見つかっています。瓜破霊園内には、市内で墳丘を留める数少ない古墳時代中期(5世紀代)の花塚山古墳およびゴマ堂山古墳があります。花塚山古墳の北にある市営住宅の調査では保存状態の良い鉄鏃(てつやじり)や刀子(とうす)が、霊園の西側では遠く愛媛県の市場南組窯で焼かれた須恵器を含む各種の土器類や渡来人の居住を示す韓式系土器が出土しています。
飛鳥時代以降の遺跡は、瓜破東2丁目の瓜破霊園の南方に飛鳥時代の役所の可能性の高い掘立柱建物群が、奈良時代になると霊園の中央部で古瓦や白鳳時代の塼仏が出土したという瓜破廃寺が、霊園の北には飛雲文軒瓦を伴う成本廃寺が存在したものとみられています。
平安~室町時代の集落遺構は台地の西部を南北に走る中高野街道沿いで井戸や掘立柱建物が見つかっています。瓜破4丁目から出土した宝徳3年(1451年)銘の卒塔婆は、表に胎蔵大日真言・光明真言を、裏に金剛界五仏が梵字で書かれており、往時の瓜破地域の人々の信仰を知るうえで重要な資料になっています。
(協力 大阪文化財研究所 田中清美)
瓜破地域は、河内国丹北郡に属し、東瓜破村・西瓜破村、萬屋(よろずや)新田に分かれていました。東瓜破村は、現神奈川県の小田原藩の領地であり、西瓜破村は、現群馬県の舘林藩の支配地で、萬屋新田は、代官支配から御料でした。
廃藩置県後、堺県に統合され、瓜破地域は、河内国丹北郡第一九区・同二十区、第二大区一小区二番組などを経て、八尾郡役所に属しました。明治14年(1880年)に堺県が廃止され、大阪府に編入されました。なお、明治7年(1873年)に、東瓜破村の敬正寺に丹北郡第七十七番小学(現瓜破小学校)が設立されています。
市町村制の施行により、東瓜破村・西瓜破村・萬屋新田は合併し、瓜破村となり、中河内郡に属することとなりました。
明治前期の主要農産物は、米・綿・菜種・裸麦であり、木綿織や糸紡ぎなどが行われていましたが、外国綿の輸入により、明治の末には綿作がなくなっています。
人口の増加に対応し、都市のあるべき姿を実現するため、大阪市では、大正15年(1926年)に第二次都市計画事業が打ち出され、瓜破霊園が昭和3年(1928年)に事業が始まり、昭和15年(1940年)5月に竣工し、使用が開始されています。
昭和30年(1955年)4月に、大阪市東住吉区に編入され、区役所瓜破出張所の新設、道路・下水道の改修整備、公営住宅の建設、教育施設の充実、市営バスの乗り入れ、上水道の整備などが行われ、生活環境は大きく向上しました。
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大阪市営 |
大坂府営 |
昭和32年(1957年) |
瓜破東住宅(228戸) |
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33年(1958年) |
瓜破東住宅(38戸) |
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34年(1959年) |
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瓜破住宅 (184戸) |
35年(1960年) |
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瓜破住宅 (717戸) 瓜破東住宅(120戸) |
36年(1961年) |
瓜破東第2住宅(152戸) |
瓜破住宅 (815戸) 瓜破東住宅(144戸) |
37年(1962年) |
瓜破東第2住宅(416戸) |
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38年(1963年) |
瓜破西住宅(440戸) |
瓜破国塚住宅(311戸) |
39年(1964年) |
瓜破西住宅(198戸) |
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人口の増加などを受けて、昭和49年(1974年)に平野区が発足し、昭和55年(1980年)11月に大阪市営地下鉄谷町線(天王寺~八尾南)が開通し、合わせて阪神高速道路14号大阪松原線が整備されるなど、交通利便性が大きく改善されました。
なお、阪和貨物線は、一時期旅客化の構想もありましたが、平成16年(2004年)7月に休線となり、平成21年(2009年)3月に廃止されています。